4月17日の午後、小倉昭和館で「水俣曼荼羅」の上映会が行われました。その日の午前中は映画監督の原さんも、野研のみんなとタケノコ掘りに参加されたと聞きました。ぼくはタケノコ掘りにも上映会にも参加できませんでしたが、上演後の打ち上げ会だけちゃっかり加わりました。
昭和館で再会した原さんはニコニコ顔で「おー、元気にしとった?」と肩を叩いてくださいました。原さんは読売新聞に僕の書いた『水俣曼荼羅制作ノート』のエッセイが載ると知ったとき「ああ、あの子かね」と思い出してくださっていたとディレクターの方から伺いました。幕間にもこのエッセイについて触れ「今ここにいる?」と呼びかけてくださったそうです。その場にいられず残念ですが、原さんに喜んでいただけたと分かり、頑張ってよかったなあと思いました。
打ち上げの席で「原さんは水俣病の物語の幕引きを自分でしようかなとTwitterに書いていらっしゃいましたが、そうされるおつもりですか?」と伺いました。
「ドキュメンタリーというのはさまざまなできごとを映像にして組み合わせて、最後にディレクターが『私はこう思うよ、こうじゃないといけないよね』と観客に同意を促すものなんだよね。ところがこの映画はさまざまな要素が複雑に絡まり合って結論というのが導きづらい。水俣映画の先発ピッチャー土本典昭さんは、15本も水俣の映画を作っているんだよね。私は今回その続きになるようにちょっと長いものを作った。だけど水俣病問題はいまだスタートラインから一歩も出られていなくて、しかもこの映画ではすべてを描いているわけではないんよ。だからこの物語がこのあとどのような結末を迎えていくのか、私のように体力が尽きかかっている人ではなく、時間も気力もある若い人に描いてもらいたい。私はそう思っているんよ」
僕はさらに質問しました。「水俣病の問題は一歩も解決には進まず、逆になかったことにされようとしています。最終的には原告の方々の力が報われず、もみ消されてしまうようなことになるのではと思うのですが、その絶望的な光景をクローザーは描かないといけないのでしょうか」
「あのね、君は世代というものについて考えたことがある? 人は自分たちの生まれた世代、その時代に生まれたことへの責任があると思うんだよ。僕が生まれたのは1945年、日本が戦争にボロ負けして軍国主義社会から民主主義社会へと切り替わった年だったんだよね。僕たちの世代はせっかくこの民主主義社会の時代に生まれることができたのだから、民主主義を守るための精一杯の努力をしようと思っているんだよ。だから僕は民主主義のルールにのっとって映画という手段で社会の不条理と闘ってきたつもりでいるんだよ。そりゃ、政府の方針を変えることができなくて奥崎謙三みたいにテロリズムに走ろうかとも思ったりするときもあるけれど、いやいやそれではいかん、民主主義のルールに基づいて僕らは闘わなければいけないと歯を食いしばって頑張ってきたんだよ」
「だからね、どれだけ絶望的な状況で最終的には踏みつぶされても闘い続けなければいけないと思うよ。それが僕たちの自由を守るためのことなんだから」
原さんの過激だと評されがちな映像表現は「民主主義」の社会だからできることです。原さんは「自由」を誰よりも大切に思っていらっしゃる方でした。あって当たり前のように思われている「権利」は実は得難いもので、守るのには精一杯の力がいるんだ、という原さんのメッセージは、この日二十歳になったばかりの僕に21世紀に生まれた責任について考えろよ、という響きをもって伝わってきました。